松山英樹がPGAツアーに参戦して間もなく10年目を迎えようとしていますが、アメリカで10年戦い続けることは並大抵の努力では実現させることはできません。今回は、PGAツアーでの日本人プレイヤーの先駆者と言える丸山茂樹についてのお話です。
孤独と戦い続けながら守り続けたシード権
日本でプロになり、日本ゴルフ界のスターとなった1990年代後半の丸山茂樹は、パワーヒッターと呼ばれていました。
2000年にアメリカツアーで戦いはじめた当初も、契約メーカーが世界に先駆けて開発した最新のドライバーやボールのおかげもあって、彼は飛ばし屋の部類に数えられていました。
しかし、あらゆる用具メーカーがこぞって飛ぶクラブ、飛ぶボールを開発し始めると、それらを手にした大柄な選手たちは丸山選手の飛距離を楽々追い抜いていき、丸山選手の位置づけは、あっという間に「小柄で飛ばないショートヒッター」へと変わってしまったのです。
それでも彼は2001年からアメリカツアーで毎年優勝を飾り、当時の日本人男子選手としては最多の通算3勝を挙げました。2004年の全米オープンではメジャー初優勝に迫り、4位に食い込みました。
しかし、その後の成績は沈みがちになり、日本人メディアは次々に彼のそばから離れていきました。
アメリカツアーで10年戦い続けることの大変さ
アメリカツアー8年目にしてシード落ちの危機に瀕していた2007年終盤のギン・シュルメール・クラシックでは、日本人メディアはついにゼロになり、私もテレビ観戦していました。
そんな中、彼は3日目に突然リーダーボードを駆け上り、優勝のチャンスに迫りました。私は大慌てで飛行機に飛び乗り、徹夜で移動して会場へ駆けつけ、必死の戦いを間近で眺めました。
勝利こそ逃したものの2位になり、瀬戸際でシード権を死守した丸山選手は駐車場で私に右手を差し出し、「来てくれてありがとう。やっぱり僕は、このアメリカで10年頑張りたい」と言いました。私は思わず、「じゃあ10年。一緒に頑張りましょう」と答えました。
私は本気で約束したつもりでした。彼もあのときはきっと本気でそう言ったのだと思います。しかし翌年の夏、彼は「10年」まであと1年というタイミングで、ひっそりとアメリカから去って行ったのです。
私は、裏切られたような、情けないような、悔しいような、複雑な気持ちに襲われました。彼の真意がわかったのは、それから17か月後の冬でした。続きは次回に。
文/舩越園子(ゴルフジャーナリスト)