アメリカでも愛されていた「遼くん」の話【舩越園子 ゴルフの泉】

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現在31歳の石川遼(2023年関西オープン)写真:JGTO images

石川遼がアメリカツアーに挑み始めたのは2009年の春からでした。彼はスポンサー推薦や特別推薦をもらえた大会のみ出場しており、そのスタイルで4年間も出続けていたことは、それだけ彼がアメリカでも人気者として評価されていたことが分かります。今回は、アメリカでも愛されていた時の石川遼のお話です。

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「月より高い」と表現された弾道には皮肉も込められていた

 2009年からアメリカツアーに挑み始めた石川遼は、「僕はドライバーで構築するゴルフをしたいんです」と、いつも言っていました。

 どんな状況でもドライバーを握る石川選手が思い切りよく打ち出したショットを見て、アメリカツアーの選手やキャディたちは「リョウは、月より高い球で、ただただ果敢に挑む」と目を丸くしていました。

 「月より高い球」という表現の奥底に、「無茶」や「無謀」を揶揄する皮肉が込められていたことは傍から見れば明らかでした。でも、石川選手はそんなことにはお構いなしで、いつも元気にドライバーを振り続けていました。

2011年アメリカツアーでのリッキー・ファウラー(左)と石川遼 写真:Getty Images

 2010年にファッショナブルなリッキー・ファウラーがデビューして大人気になると、石川選手とファウラーはしばしば同じ組になり、全身オレンジ色のウエアに身を包んだファウラーの傍らで、石川選手は全身グリーンだったり、全身真っ赤だったり、赤い帽子と白いウエアだったり。カラフルな2人をアメリカのメディアは色とりどりの「M&Mチョコレートのようだ」などと例えていました。

 ファッション性や華やかさでファウラーと互角に競い合える選手は、日本でも世界でも、石川選手以外にはいなかったし、今でもいないと思います。

 2011年の夏、石川選手は世界選手権の『ブリヂストン招待』でアメリカツアー初優勝のチャンスを掴み、最終日を最終組で回ることになりました。

 1番ティでオーストラリアのアダム・スコットが静かにスタートを待っていた傍らで、石川選手はドライバーをブンブン振り回しながら素振りを続ける姿は、あまりにも対照的でした。

 そして、緊張と興奮に押し潰されそうになりながら戦った石川選手は勝利を逃がし、4位タイに終わりました。それでも大勢のアメリカメディアが石川選手の健闘を讃えたことを今でもよく覚えています。そんなふうに石川選手はアメリカでもみんなから愛されていました。

「試合を休むのが怖かった」

2013年アメリカツアー挑戦中の石川遼 写真:Getty Images

 推薦頼みではなく正式な出場権を手に入れたいと考えていた石川選手は、2013年についにアメリカツアーの正式メンバーになり、スポット参戦から本格参戦へとスタイルを本格化したのです。

 しかし、同じタイミングで腰痛悪化も本格化したことは、あまりにも皮肉な偶然でした。それでも彼は歯を食い縛って練習と試合出場を繰り返していましたが、腰はさらに悪化していきました。

 「試合を休めば抜かされると思った。試合に出ないことが怖かった」

 2016年2月、腰が限界を迎え、戦線離脱。しかし、公傷制度が適用されたおかげで、2017年にアメリカツアー再挑戦を開始。そのとき彼は、正直にこう明かしました。

 「昔の僕は両サイドにOBがあることも知らず、知らなかったからこそ、思い切りドライバーを振っていた。それほど僕は若かったってことですよね」。そう振り返った石川選手は、こんなことも明かしてくれました。

 「僕、アメリカでPGAツアーに出始めた最初のころは、予選カットラインがどのぐらいになるかさえ知らなかったし、わからなかった。一緒に回っている目の前の選手より、自分が上手いのかどうかもわからなかったんです。僕自身、ずいぶん変わったと思います」

 そんな変化を経験した石川選手だからこそ、ヘアスタイルを斬新に変えたり、男子選手がプロアマ戦や本戦で短パンを着用することの是非に関しても、「変わっていくことは不自然なことではない」と声を大にしているのです。

 なるほど、遼くんらしいなあと、つくづく感じさせられます。

文/舩越園子(ゴルフジャーナリスト)

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