「孫から孫へ語り継がれる武勇伝」全盛期のタイガーと死闘を繰り広げた男とは【舩越園子 ゴルフの泉】

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2008年全米オープンのプレーオフでティーショットを打つロッコ・メディエイト 写真:Getty Images

PGAツアーを長く取材してきた中でも印象に残る復活劇を演じた選手がいます。今回は、2008年の全米オープンで、全盛期のタイガー・ウッズと死闘を繰り広げたロッコ・メディエイトという選手のお話です。

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腰痛再発で逃したマスターズ制覇

 2006年マスターズ最終日を首位で迎えながら、持病の腰痛が悪化していたロッコ・メディエイトは、主治医に「あと5時間だけ僕の腰をもたせてくれ」と頼みましたが、彼は9番ホールで腰に激痛を覚え、最終日は80を叩いて36位に終わりました。

 「壊滅的な瞬間だった。ドクターは僕に2時間しかくれなかった」

 そんな一言を残してオーガスタ・ナショナルから去っていったメディエイトの悔しさとやるせなさが入り混じった複雑な表情が、あの日から私の脳裏に焼き付いていました。

 1986年にアメリカツアー参戦を開始したメディエイトは、すぐに腰を痛めました。そして、腰を保護する目的で、当時では珍しかった長尺パターをアメリカツアーで一早く採り入れ、1991年に初優勝を挙げたときは「史上初の長尺パター・チャンピオン」と話題になりました。

 1994年に腰の手術を受け、それから復活優勝までに5年を要しました。温暖な気候を求めて住まいもフロリダ北部から南部へ移し、その甲斐あって2003年ごろには長尺パターをレギュラーパターに戻せるほどに回復。それなのに、2006年のマスターズでは優勝争いの大詰めで最悪の症状が出てしまい、目前だった勝利が一気に遠のいてしまいました。

 周囲からは「再起不能説」さえ囁かれていました。しかし、メディエイト自身は早々に心の傷を克服し、再起を誓いました。

 「僕はマスターズで63ホールもの間、リードを保った。その事実に自信を持てばいい。そう考えたら勇気が出た。僕は何も恐れずに戦った。もう何も怖くない」

 その翌年、2007年3月のアーノルド・パーマー招待で2位に食い込んだメディエイトは、自身の復活を映画の主人公になぞらえて「僕はロッキー6だ」と笑っていました。その傍らで私は「不死鳥みたいだな」と思いました。そして、その翌年、私たちはメディエイトのさらなる「不死鳥のような復活」を目にすることになったのです。

ツアー史に残るタイガーとの91ホールに及ぶ死闘

2008年全米オープンで勝利をつかんだタイガー・ウッズの渾身のガッツポーズ 写真:Getty Images

 2007年のアーノルド・パーマー招待で2位に食い込み、不死鳥のような復活ぶりを披露したメディエイトは2008年の全米オープンで、タイガー・ウッズと激しい死闘を演じました。当時、全米オープンのプレーオフは最終日の翌日の月曜日に18ホールを戦い、それでも決着しないときはサドンデス・プレーオフで戦うという形式でした。

 月曜日、2人のプレーオフに詰め寄せた観衆は2万人を超えていました。当時45歳のメディエイトは、いつ再発するかわからない腰痛を抱えていましたが、ウッズはウッズで左足を痛めており、歩くことさえままならない状態でした。そんな2人がどんな戦いを見せ、どちらかが勝利するのか。人々の関心は高まるばかりでした。

 デッドヒートを繰り返した2人はまるでエンドレス。18ホールでは決着せず、サドンデス・プレーオフへもつれ込みましたが、その1ホール目で、ついにウッズが勝利しました。

 通算91ホールの死闘は長い長い戦いでした。祭りのあとの人々の注目は、「すぐさま再手術」と報じられたウッズにばかり注がれ、敗北したメディエイトの存在は人々の記憶から、あっという間に薄れていきました。でも私の胸にはメディエイトの言葉が深く刻まれました。

 「キャリアに終止符を打つ前に、僕は一度でいいから、タイガーとこうして戦いたかったんだ。タイガーが必死にバーディーを獲らない限り僕に追いつけないなんて状況を僕が作ったことは、僕の孫からその孫へと代々語り継がれていくほどの武勇伝だ」

 なるほど、不死鳥の武勇伝は、メディエイトの孫が語り継ぐ前に、私が日本へ伝えますよと、私は胸の中で秘かに呟きました。

文/舩越園子(ゴルフジャーナリスト)

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