生涯忘れないスチュアート・アップルビーへの単独インタビュー【舩越園子 ゴルフの泉】

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2022年の全米シニアオープンでのスチュアート・アップルビー(右) 写真:Getty Images

ジャーナリストたちは様々なシチュエーションでプロ選手たちを取材しますが、時には、選手たちが聞かれたくないと思われる内容の取材をお願いする場合があります。今回は、舩越さんが「生涯忘れることはない」と思ったインタビュー取材のお話です。

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アメリカで初めて体験した「涙の会見」

 1998年の夏。メジャー大会の1つである全米プロの開幕前に、スチュアート・アップルビーというオーストラリア人選手の記者会見が開かれました。

 その1か月前に開かれた全英オープンで予選落ちしたアップルビーは、「せっかくヨーロッパまで来たのだから、ハネムーンの続きをしよう」と、結婚したばかりだった妻のリネイと2人でパリへ向かおうとしました。

 しかし、ロンドン市内の電車の駅の前でタクシーを降りた直後、リネイが車と車に挟まれる事故に遭い、アップルビーの目の前で亡くなってしまったのです。

1998年の全米プロでの「涙の会見」 写真:Getty Images

 妻を突然失ったショックと悲しみの中にありながら、わずか1か月で試合に復帰したアップルビーは、「ずっと泣きながら家にこもって悲しんでいるより、僕がこうして試合に出ることを天国の彼女は望んでいるはずだから」と言いました。

 しかし、そう言った彼の声は震えていて、涙が次々に頬を伝いました。記者やカメラマンの間からも、すすり泣く声が聞こえてきました。

 あれは、私がアメリカで初めて体験した「涙の会見」でした。

アップルビーにお願いした単独インタビュー

 それから半年後。気丈に試合に出続けていたアップルビーに、私は1対1のインタビューをお願いしました。

 「あなたと同じように大切な家族を失い、悲しみから抜け出せずに苦しんでいる人々が日本にも大勢います。すでに試合に復帰しているあなたが、悲しみとどう向き合いながら頑張っているのかを聞いて記事を書き、日本のそういう人々を励ましたいんです」

 あのとき私は、それまでで一番一生懸命に、一番必死に、取材のお願いをしました。私のお願いに対し、アップルビーは数秒間、黙って考えたあと、「そういうことならOKだよ」と言って、単独インタビューに応じてくれたのです。

現在もシニアツアーなどで活躍中(写真は2022年のRegions Tradition) 写真:Getty Images

生涯忘れないインタビュー

 私は、約束の日、試合会場の選手用ラウンジで、2人きりで向き合いました。

 インタビューを始める前に、私は彼にこう言いました。「私にとって英語は外国語なので、オブラートに包むように上手く質問できないかもしれません。もしもあなたの傷をえぐるような尋ね方をしてしまったら、外国人ジャーナリストのつたない英語に免じて許してください」

 すると、アップルビーは、「そんなこと気にしなくていいよ」と言ってくれて、そのあとは、インタビューというより、彼の静かな一人語りになりました。

 「ロンドン市内の駅前でタクシーを降り、先に歩き出したリネイが縦列駐車していた車と車の間を通っていたとき、前の車が突然バックしてきて、リネイは車と車に挟まれ、その場に倒れ込んだ。誰がどうやって救急車を呼んだのか、まったく覚えていない。僕はリネイの名前を呼び続けたけど目を開けてくれず、やがて病院に着き、病院の中で入院患者用のランチの臭いが漂い始めた。その臭いをかいだとき、僕は突然、我にかえり、妻の死が現実なのだと悟ったんだ」

 アップルビーは窓の外の遠くに視線をやりながら話していました。溢れた涙を流すまいとして、下を向かないように努めているのがわかりました。

 「僕は決して彼女を忘れない。I never ever forget her.」

 彼は、「ネバー、エバー」のタイミングに合わせて、左手をテーブルに叩きつけました。そのとき、まだ外していない彼の薬指の結婚指輪が「コン、コン」と2度鳴りました。その音に私は涙を誘われました。

 その後、私とアップルビーは大の仲良しになったのですが、私はあのインタビューのことを、生涯忘れないと思います。

文/舩越園子(ゴルフジャーナリスト)

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